コントレイル78
私は清水先生とで「人生でほんとうに大切なこと」つまり「人の本来の幸せとは何か」ということについて語り合います。
その中で「今」「今日」という言葉がキーワードになります
色は匂へど散りぬるを わが世誰ぞ常ならむ
有為の奥山今日越えて 浅き夢見じ酔ひもせず
「いろは歌」
匂うが如く咲き誇ろうとも、あらゆる花は散ってしまう。
この世において一体何が常であろうか、何もない。
だから私は有為転変の無常世界を越えていこう。
こちらで、夢を見たり酔っ払っていないで。
ここでは、「今日」は「明日」への通過点としてとらえられています。
この世のことはどうでもいい。
この世では、失っても失っても生きていかねばならない。
ならば、いっそ、来世を生きていたい。
そんな「死生観」が流行した時代もありました。
鎮護国家のためであった仏教が、庶民まで伝わってくると、
無常感や輪廻思想が優勢になってくるからのようです。
ここでは「今日」は「明日」のための「今日」でしかありません。
「今日」は「明日の前の日」の意味しか持ちません。
とはいえ、みんながみんな、同じ「死生観」を持っていたわけでもありません。