「人生でほんとうに大切なこと」 精神腫瘍医との対話

「5年生存率5%」のがん患者が、がん専門の精神科医と共に歩んで来た「絶望の淵から希望の星まで」の道程

コントレイル68

世界には、様々な別れの言葉がある中で、「さようなら」という別れの言葉は、

 

これまで生きてきた「生」を

「さようなら(さようであるならば)」と、立ち止まり確認し終えて、

これからの「死」を死んでいく。

 

という、日本人の特有な「死生観」を示しているのではないか。

 

「日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか」の中で著者の竹内整一氏は問いかけます。

 

「そして、この本の終わりは、がんで亡くなった宗教学者岸本英夫について語られます。

 

━死というのは、人間にとって、大きな、全体的な「別れ」なのではないか。

そう考えたときに、私は、はじめて、死に対する考え方がわかったような気がした。

━死という別れと、ふつうの別れと、どう違うかという事に想いをすすめる

ふつうの別れは、「次のいく先があり、その行先のことを考えながら別れることができる。

死の場合には、死後のことがわからない。そういう別かれだから深刻になるのかもしれない。

━「別れのとき」という考えかたに目ざめてから、私は、死というものを、それから目をそらさないで、面と向かって眺めてみることが多少できるようになった。

 それまで、死を無といっしょに考えていた時には、自分が死んで意識がなくなれば、この世界も無くなってしまうような錯覚かた、どうしても脱することができなかった。

 しかし、死とは、この世に別れを告げつときと考える場合には、もちろん、この世は存在するする。すでに別れを告げた自分が、宇宙の霊に帰って、永遠の休息に入るだけである。

 私にとっては、少なくとも、この考え型が、死に対する、大きな転機になっている。

 

この岸本英夫氏の言葉の後に、浄土真宗の僧侶であった金子大栄が

「色即是空 空即是色」

花びらは散る

花は散らない

と訳していたことが記されています。

 

日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか (ちくま新書)

日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか (ちくま新書)