コントレイル68
世界には、様々な別れの言葉がある中で、「さようなら」という別れの言葉は、
これまで生きてきた「生」を
「さようなら(さようであるならば)」と、立ち止まり確認し終えて、
これからの「死」を死んでいく。
という、日本人の特有な「死生観」を示しているのではないか。
「日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか」の中で著者の竹内整一氏は問いかけます。
「そして、この本の終わりは、がんで亡くなった宗教学者岸本英夫について語られます。
━死というのは、人間にとって、大きな、全体的な「別れ」なのではないか。
そう考えたときに、私は、はじめて、死に対する考え方がわかったような気がした。
━死という別れと、ふつうの別れと、どう違うかという事に想いをすすめる
ふつうの別れは、「次のいく先があり、その行先のことを考えながら別れることができる。
死の場合には、死後のことがわからない。そういう別かれだから深刻になるのかもしれない。
━「別れのとき」という考えかたに目ざめてから、私は、死というものを、それから目をそらさないで、面と向かって眺めてみることが多少できるようになった。
それまで、死を無といっしょに考えていた時には、自分が死んで意識がなくなれば、この世界も無くなってしまうような錯覚かた、どうしても脱することができなかった。
しかし、死とは、この世に別れを告げつときと考える場合には、もちろん、この世は存在するする。すでに別れを告げた自分が、宇宙の霊に帰って、永遠の休息に入るだけである。
私にとっては、少なくとも、この考え型が、死に対する、大きな転機になっている。
この岸本英夫氏の言葉の後に、浄土真宗の僧侶であった金子大栄が
「色即是空 空即是色」
を
花びらは散る
花は散らない
と訳していたことが記されています。