「人生でほんとうに大切なこと」 精神腫瘍医との対話

「5年生存率5%」のがん患者が、がん専門の精神科医と共に歩んで来た「絶望の淵から希望の星まで」の道程

コントレイン76

私は「わからないことは怖い」→「わかれば怖くなくなる」という仮説から、

「死」についての知識を習得することを思いつきました。

もちろん、清水先生の「死生観」という言葉がきっかけとなったことは間違いありません。

 

しかし、世界には、私たち日本人とは決してあいいれることのない「死生観」というものが存在していること、いや。もしかしたら、私たち日本人の「死生観」の方が、独特であったり、替わっている、もっっといえば、日本固有のものであると考えるようになりました。

 

 2015年は私の肺がんが発現した年ですが、この年の世界の総人口の31%がキリスト教徒で、24%がイスラム教徒であると言います。キリスト教イスラム教、そしてユダヤ教という「天啓宗教」は、世界を向いてから創造したのは髪であり、その世界には始まりと終わりがあって、終末の日に神が最後の審判を行う、という世界観を共有しています。

 神を信じるというのは、神が唯一であることを信じ、それ以外に神はいないことを意味するため、神がいないと主張することも、複数の神を信仰することも共に禁じられています。神はいないと主張することは背教の罪。複数の神を信仰することは多神教の罪を構成し、イスラム法では富に死刑に当たると規定されています。

イスラム教の論理 (新潮新書)

イスラム教の論理 (新潮新書)

 

無宗教」であったり、初詣に行き、ハロウインやクリスマスを祝う日本自人は、イスラム教徒から見れば「死刑に値すると規定されている」ことになります。

 

「話せばば分かる」

日本人は、そう信じています。そう、信じたがっている喪かもしれません。

しかし、「話せば分かる」とは、ほとんどの場合、幻想に過ぎないように思われます。

もしも、「話せば分かる」ことがあるとしたら、相手が知らなかった「情報「や「知識」を共有できた時だけなのではないでしょうか。

 

「死生観」が違うということは、生きかたも、価値観も違うわけです。

私は、「イスラム教の論理」を読んで、イスラム教徒を恐しく思うことはありませんでした。

世界の55%の人たちと、日本人は、全く異なる「死生観」を持つのだということへの確認を深めました。

 

私は「日本人の死生観の歴史」を知りたいと思いました。

「歴史」という事実の積み重ねである「知識」であれば、、

「信じるか」「信じないか」

ではなく、

「知っているか、知らないか」

ということになります。

 

つまり、「話せば、わかること」になると思ったのです。